目次
滑走路にひざまずき、手を合わせた安倍首相(当時)
今日は2022年7月18日。安倍晋三・元首相がテロリストの凶弾に倒れ、無念の死を遂げてから10日が過ぎました。
安倍元首相といえば、必ず思い出す写真があります。今日はその写真を紹介し、故人を偲ぶことにしましょう。
2013年4月、ひざまずき滑走路をなでる安倍首相(出典:首相官邸facebook)
飛行場で両手両足をつき、滑走路をなでているのは安倍首相(当時)です。時は2013年4月14日(日)。場所は小笠原諸島の南端近くに位置する硫黄島(正式名称「いおうとう」)の自衛隊基地。
この日、安倍首相は休みを返上し、東京から約1,250km離れた硫黄島を訪れ、遺骨収集作業を視察しました。
その硫黄島で、なぜ一国の首相がひざまずいているのか。そのいきさつをお話ししましょう。
英霊が眠る硫黄島
硫黄島がなぜ「最激戦地」となったのか
出典:読谷バーチャル平和資料館
東京都からはるか遠くに位置する硫黄島は、先の太平洋戦争で日米両軍が最も激しく戦った場所でした。どれほど凄まじい戦闘だったかは、双方の戦傷者の数から知ることができます。
日本軍の守備兵力約2万名余のうち、その95%が戦死あるいは行方不明。生き残ったのは捕虜となった約1千名のみで、そのほとんどが重傷者だったとか。一方のアメリカ軍は上陸兵約6万名のうち、戦死者約6,800名、戦傷者21,800名との記録が残されています。
双方これほどまでの犠牲者を出しながら、なぜ東西8km、南北4kmほどの小さな島を奪い合ったのか。
実は米軍は硫黄島に飛行場を整備・造成し、日本本土爆撃の支援基地とする計画でした。この島を奪いさえすれば、東京をはじめ日本のどこでも大規模な爆撃が可能となります。それは戦闘とは関係のない一般市民からおびただしい数の死傷者が出ることを意味します。
当初、米軍は硫黄島を5日間で占領する予定で、上陸前3日間に島の形が変わるほどの艦砲射撃と爆撃を行いました。その凄まじさは、海兵隊員が「(上陸する)おれたち用の日本人は残っているかな?」と冗談を交わすほどだったそうです。
34日間耐え忍んだ兵たちの支え
W. Eugene Smith, The LIFE Picture Collection/Getty Images
NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版サイト
一方、栗林忠道(くりばやし・ただみち)陸軍中将率いる日本軍は、島の地下に総計18kmに及ぶとされる地下壕を巡らせ、1000基近くのトーチカを構築。地下壕内の60度近い地熱とのどの渇きに苦しみながらも、米軍と死闘を繰り広げること実に34日間にも及びました。
死ぬ運命しか残っていない将兵たちを支えたのは、「自分たちが敵の攻撃に耐えているうちは、父母も妻子も無事なのだ」(梯久美子著、『散るぞ悲しき 硫黄島総司令官・栗林忠道』)という思いだけでした。
一日長く耐え忍べば、一日祖国への爆撃を遅らせることができる。それは妻や子の命を一日長らえさせることになる。どんなに苦しく辛くとも、何としてもこの島を守り抜くのだという気迫が、この奇蹟を生んだと言われています。
ジョー・ローゼンタール(Associated Press所属)撮影『硫黄島の星条旗』
遺体の上に敷かれたアスファルト
前置きが長くなりました。安倍首相が滑走路にひざまずいた理由でしたね。
硫黄島を占拠した後、急ぎ滑走路の整備・造成を急いだアメリカ軍。おびただしい数の日本兵の遺体を回収しないまま、その上に直接アスファルトを敷き、飛行場を完成させたと言われています。
1968年に硫黄島が日本に返還され、滑走路は自衛隊に引き渡されました。安倍首相が訪れる2013年まで、一部の遺骨は収容されたものの、大部分は地下に放置されたまま。自衛隊機は45年もの間、日本兵の遺骨の上で日々の離着陸を繰り返していたのです。
祖国と次の世代を守るために言葉に尽くせないほどの辛苦を耐え忍び、ふるさとを遠く離れて亡くなった多くの英霊。彼らに何を語りかけたのか、首相は明らかにしていません。
安倍首相が地下の遺骨収容に向け、滑走路を移設することを表明したのは、その年の8月のことでした。
◆安倍総理 硫黄島訪問 – 平成25年4月14日(出典:首相官邸)
追記
統合幕僚長の証言
前自衛隊統合幕僚長 河野克俊氏(出典:ENCOUNT)
2022年7月12日、自衛隊前統合幕僚長の河野克俊氏がニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」に出演。この時の安倍氏の様子を次のように語っている。
河野)私が海上幕僚長だった時代、安倍元総理が2013年に硫黄島を視察されました。硫黄島は海上自衛隊が管理しているので、当時、海上幕僚長だった私がお出迎えしました。最後にお見送りをするときに、飛行機でお帰りになるので、滑走路を通過して行かれます。私もまったく予期していなかったのですが、突然、安倍元総理が滑走路に跪き、手を合わされたのです。
飯田)滑走路に。
河野)私も恥ずかしながら突然のことで、どのように対応していいのかわかりませんでした。滑走路の下にも多くのご遺骨が眠っているのですが、そのことを安倍元総理はご存知で、自然とそのような行動に出られたのだと思います。その行動を見て、本当に「戦没者に対する哀悼の念が深い方だな」と心底思いました。
(略)
河野)おそらく日米双方の御慰霊に対して敬意を表されたのだと思います。
(出典:「硫黄島の視察の際、突然、滑走路に跪き手を合わせた安倍元総理」前統合幕僚長・河野克俊氏が語る – ニッポン放送 NEWS ONLINE)
青山繁晴氏による訴え
安倍元首相に硫黄島に眠る遺骨のことを訴えたのは、参議院議員の青山繁晴氏(当時は独立総合研究所長)とされる。この間の経緯は、氏の著書『死ぬ理由、生きる理由 英霊の渇く島に問う』(青山繁晴著、株式会社ワニ・プラス)に記されている。
具体的には、2007年5月29日に安倍総理(第一次安倍政権時)と総理官邸で昼食を共にし、硫黄島で無念のまま眠り続ける英霊のことを紹介した経緯が語られている(同書p.170~p.176)
◆本シリーズの次の記事はこちら >あとからくる君たちへ(59) 安倍元首相が若者に送ったメッセージ
◆本シリーズの他の記事はこちら >シリーズ「あとからくる君たちへ」関連記事へのリンク
[…] ◆本シリーズの次の記事はこちら >あとからくる君たちへ(58) 滑走路にひざまずく安倍元首相 […]
[…] じじいのぼやき(1) 安倍元首相の国葬、よう分からんのぉ。 あとからくる君たちへ(58) 滑走路にひざまずく安倍元首相 […]
[…] じじいのぼやき(1) 安倍元首相の国葬、よう分からんのぉ。 あとからくる君たちへ(58) 滑走路にひざまずく安倍元首相 […]