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運動ゼロの女性作家、50代で登山を始める
たまたま新聞の書評欄で紹介されていた1冊、『バッグをザックに持ち替えて』(光文社)。唯川恵(ゆいかわ・けい)という著者名に覚えがあったので、ネットで検索してみると『淳子のてっぺん』の著者だった。
『淳子のてっぺん』は、女性として世界で初めてエベレストに登頂した田部井淳子さんをモデルにした小説。数年前に一読し、いたく感銘を受けた記憶がある。
あの『淳子のてっぺん』を書いた人の山エッセイなら読んでみたい、と思った。
書評には「作家で軽井沢在住の著者が、50代で始めた登山。‥‥ついには標高5000メートル超のエベレスト街道に挑むまでに」と紹介されている。
さっそく読んでみたが、これが実に面白かった。
ほとんど運動などやったことのない女性作家が、愛犬を失った喪失感を埋めるために始めた山登り。トレーニングを重ね、半年かけて地元の浅間山(2,568m)登頂に成功。「達成感と満足感と充実感」が入り交じった感動を体験(分かる分かる)。
以来、山にはまり、のめりこんでいく経緯と心理とエピソード(失敗談も)が、軽妙な筆致で描かれて飽きさせない。
登山初心者の5年間を追体験
唯川恵氏(出典:クロワッサン online )
唯川恵、前述の『淳子のてっぺん』を読むまで、全く存じ上げない作家だった。「50代で始めた登山」というフレーズが気になりプロフィールを見ると、1955年生まれとある。現在65歳で小生より2歳下だ。2010年に浅間山に登頂とあるので、55歳から登山を始めたことになる。
同世代で55歳から登山スタートと知り、50歳から山歩きを始めた小生には、これだけで親近感がいや増すというもの。読み進むにつれ、山を始めた頃の自分がオーバーラップし、「こんなこともあったよな」と感慨にふけることが多かった。
たとえば、山道具選び。登山靴、レインウェア、ザック、下着‥‥、何をどう選べばよいか分からない段階から、登山用具店に行くたびに欲しいものばかりとなる物欲との戦いの時代。
歩き方、呼吸法の習得や、イノシシ、猿、熊等の野生動物に遭遇した時の驚き、アイゼンを付けて初めて歩いた時の嬉しさと違和感‥‥。
危険な岩場を歩く緊張感は次のように記されている。
岩だらけの急斜面は、下りこそ慎重さが必要になる。登りの時は、体はきつくても、目線が足元に集中するので怖さはあまり感じないが、下りは全風景が目の前に広がるので、身が竦む。ジェットコースターのいちばん高いところから下を見ているような状況を想像していただけたらと思う。
また下山後の呑み会の記述は、まさにその通りと膝を打ってしまう。
どんな山に登ろうと、これ(引用者注:下山後の呑み会)が笑ってしまうほど盛り上がる。アドレナリン全開になっているせいか、みんなものすごくテンションが高い。山に行けば、毎回、何かしらのアクシデントに見舞われるものだが、それを肴(さかな)に呑む時間の楽しいこと。あっという間に時間が過ぎてしまう。
山好きの人なら誰でも経験済みの「あるある!」体験が、直木賞作家の筆で描かれるのだから、面白くないはずがない。
山歩きの魅力が、さすがの筆力で追体験できる一冊。自分の駄目さ加減、無知を隠さず、素直に表現している点も好印象だ。
シニア女性の「成長」物語
本書で驚くのは、著者の「成長」の早さ。ご主人(山に登る時は「リーダー」と呼んでいるらしい)が山のベテランとあってか、その適切なアドバイスとトレーニングにより、みるみるうちに国内の3000m級の山々や名峰を踏破していく。ホームマウンテンの浅間山(標高差1,000m超)は、100回は登ったというから凄い!
ついには、12日間かけヒマラヤのカラパタール峰(標高5545m)を目指すトレッキングの旅に出かけることになる。なぜカラパタールかというと、世界最高峰のエベレストが一番美しく眺められるからだという。
全くの山の素人だった50代の女性が、山に目覚め、山によって生きる活力を得、夢の実現に奮闘する。いわば本書は、シニア女性の「成長」物語と言ってよい(小生はそのように読んだ)。
読者は読み進むにつれ、「50過ぎてもここまでやれるんだ」、「まだまだ自分も頑張らねば」と元気が湧いてくるのに気づくだろう。
「こんなこともあったな」とにんまりし、元気が湧き、そして無性に山に行きたくなる。そんな一冊である。
山を愛する全ての人におすすめしたい。