前回は「水を運ぶ少年」のエピソードを紹介しました。今回は、私を奮い立たせてくれたもう1枚の写真です。人々から「焼き場に立つ少年」と呼ばれています。
ここで言う「焼き場」とは、原爆で亡くなった方々を火葬する場所のことです。
※ 本シリーズの前回の記事はこちら >あとからくる君たちへ(60) 水を運ぶ少年~私を奮い立たせてくれた2枚の写真~
目次
直立不動で火葬場に立つ少年
画像出典:『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』
(クリックすると画像が大きくなります)
よく知られた写真なので、見たことがある人も多いでしょう。私がこの写真を初めて見たのは20年ほど前、新聞か何かの雑誌に掲載されていました。一目見たとたん、大きな衝撃を受けたことを覚えています。
小学校高学年くらいの坊主頭の少年が、背中に幼児を背負い、直立不動で正面を見つめる姿。固く結ばれた唇と思いつめたようなまなざしから、少年の強い意志のようなものが感じ取れます。よく見ると足は裸足。「靴はどうしたんだろう」と、妙に気になりました。
強く印象付けられたのは、気を付けの姿勢の美しさです。あごを引き、背筋を伸ばし、かかとがきちんと揃っています。ピンと伸ばされた指先にまで、緊張感がみなぎっています。
写真には次のようなキャプション(説明文)が添えられていたと思います。
焼き場にて、長崎
この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。(出典:『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル、ジェニファー・オルドリッチ:平岡豊子訳(小学館、1995年))
このキャプションから撮影されたのは原爆投下後の長崎市で、少年は被爆して亡くなった方々を焼く火葬場にいること。背負っている幼児は彼の弟で既に亡くなっていることを知り、心を強く揺さぶられました。
ジョー・オダネル氏の写真解説
少年の写真が載っているのは、『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』という写真集。撮影したのは米国海兵隊のカメラマン(軍曹)、ジョー・オダネルさん。今回図書館から借り出し、改めてこの写真をじっくり見直してみました。
写真集は、見開きの左ページが写真、右ページには写真の説明や回想が記されています。
「焼き場に立つ少年」の説明、長くなりますが引用します。
少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。
長崎ではまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り上げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に私はたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。
焼き場となっていた川岸には、浅い穴が掘られ、水がひたひたと寄せており、灰や木片や石灰がちらばっている。(中略)。
焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には二歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。
私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。(中略)あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?」
(出典:『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル、ジェニファー・オルドリッチ:平岡豊子訳(小学館、1995年)以下同)
誰に対する「気を付け」なのか?
原爆投下後の少年
長崎に原爆が投下されたのは、1945年8月9日。爆発による巨大な熱球と猛烈な爆風により、市街地は焼き尽くされました。
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊という恐ろしいほどの被害です。あなたの住む市町村で、住民の3分の1の命が奪われ、建物の3分の1以上が廃墟となった状態を想像してみてください。
浦上天主堂西側、山里町の民家の焼け跡=1945年9月8日(出典:長崎新聞)
原爆投下日から写真が撮影されるまでの間、少年はどのように生きてきたのか、(勝手な)想像を巡らしてみました。
両親や家族は亡くなったか、行方不明なのでしょう。生存しているのなら、わが子の火葬に立ち合わないはずがありません。「小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった」という説明から、住む家を失った彼が幼い弟を背負い、がれきの中をはだしでさまよい続けたことがうかがえます。恐らく満足な食事もとれていないことでしょう。
市内はやけどの痛みやのどの渇きに苦しむ人で一杯。あちらでもこちらでも燃え上がる家屋。少年が体験した地獄のような日々を想像するだけで、恐ろしさがこみ上げてきます。
撮影したオダネル氏は「(少年は)何の感情も見せず、涙も流さなかった」と記していましたが、泣き尽くして涙も涸れ果ててしまったのだろう、と私は想像しました。
死者に対する哀悼の思い
少年の見事な気を付けの姿勢に心を打たれた私ですが、一つの疑問が浮かんできました。それは「なぜこの少年は気を付けの姿勢をとっているのか」ということ。
地獄のような日々を過ごし、最後の肉親である(と思われる)弟を失ったばかりの少年。大声で泣き叫ぶか、座り込んで放心状態でいるのが普通です(多分私だったらそうしています)。彼が直立不動の姿勢をとる理由は何なのでしょうか?
「気を付け」とは、目上の者や軍隊の上官に敬意を示すもの。ではこの場で少年が敬意を示そうとしているのは、誰でしょう。少年の眼前にあるのは、炎に焼かれる積み上げられた死体だけ。少年は焼かれている死者に対して気を付けの姿勢をとり、哀悼(あいとう)の誠(まこと)を捧げているのではないか、と思われます。
平和な時代なら丁重に弔(とむら)われ、親族や知人に見送られるはずの人々。それが無造作に積み重ねられ、誰にも見送られずに焼かれていく現実。ひょっとしたら、彼の両親や友人たちもこのような扱いを受けているのかもしれません。
無念の死をとげた死者に対し、「自分ができる限りの哀悼(あいとう)の誠(まこと)を捧げて、見送ってやりたい」という願い。それが気を付けの姿勢をとらせた理由だったのではないか。私にはそう思えてならないのです。
アウシュビッツの収容所で、明日ガス室に送られるかもしれないのに「何て美しい夕陽なんだ」と感動の涙を流す囚人(『夜と霧』)のことが、ふと胸に浮かびました。どんなに苦しく辛い日々であっても、人としての尊厳を保っていこうとする人たち‥‥。
神も仏もいない世の中でも、人は生きていかねばなりません。この少年が実際に存在したという事実は、私の心に小さな灯をともし、前に進む力を与えてくれました。
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