前回は東日本大震災(2011年)の時に、台湾から200億円以上(最終的には253億円)という巨額の義援金が日本へ送られたことを紹介しました。
どうして台湾の人たちはこれほどまでに日本に心を寄せ、支援してくれたのでしょう? 今回はその理由にふれてみることにしましょう。
※ 前回の記事はこちら >あとからくる君たちへ(44) 世界一の義援金を日本へ送ってくれた「国」
目次
「いつか日本へ恩返しをしたい」という想い
先日、台湾で生まれ育ち通訳・翻訳者として活動している李久惟(ジョー・リー)さんの講演記事を読む機会がありました。
李さんによれば、東日本大震災後の台湾は「小学生からおじいちゃん、おばちゃんたちまで皆『日本を支援したい』という気持ちで一つになっていました」とのこと。
そこには台湾大地震(1999年)で日本から受けた支援の「お返し」をしたい、という気持ちがあったのはもちろん。それ以上に、台湾人の心の奥に「いつか日本に恩返しがしたい」という、祖父母の代から引き継がれてきた特別な想いがあったそうです。
1999年の台湾大地震で倒壊した団地(出典:Yahoo! JAPAN)
台湾はかつては日本の領土でした(1895年~1945年)。約50年間、日本国民として生きてきた祖父母世代の「特別な想い」とはどんなものか、李さんの話に耳を傾けてみましょう。
台湾は歴史的に、互いの仲があまりよくない集落単位の村社会の時代が長く続き、なかなか大きなまとまりを持つことができない国でした。部族によって言葉や考え方が違い、狩猟の場や水や食べ物を巡って戦いも頻繁にある、そんな極度の人間不信の歴史が数百年間も続いてきたのです。
そのうち台湾は、清国による統治を受けるようになります。
清国は村同士の対立をそのままにするだけでなく、争いが激化するようそそのかしました。統治しやすいようにするためでした。
その結果、水問題が深刻になり、9割の部族が貧乏で飢餓にあえぎ、水害が起き、重税がかけられ、台湾の人たちの生活はさらに厳しくなっていきました。そんな中、起こったのがアヘンの流行です。
日清戦争の後、日本が台湾を接収したとき、実に16万人以上、軽度の人も合わせると20万人以上の常習者がいたといわれます。人口のほぼ1割です。
生活に苦しみあえぐ人たちに清国は「よく効く妙薬」としてアヘンをつかませていったのでした。台湾の人たちは、ただでさえ食べるだけで精いっぱいなのに、それを買うためにさらに貧困に苦しむようになっていきました。
そこにやって来たのが日本人です。(出典:講演「日本人に隠された真実の台湾史(李久惟)」
・日本講演新聞 2016年2月22日号より)
極貧にあえぐ台湾で日本人が行ったこと
日本が統治を始めた1895年頃の台湾は、伝染病がはやり、アヘン常習者が1割もいるアジアで最も貧しい地域でした。だから、誰も進んで来たくはなかったはずです。しかし、そんな中でも日本の先人たちは台湾にやって来て多くの「奇跡」を起こしました。
李さんの話から、日本が起こした「奇跡」を2つ紹介しましょう。
ダムの建設と農業の振興
台湾南西部に広がる最大の平原・嘉南(かなん)平野は、香川県ほどの広さで台湾の全耕作面積の6分の1にあたります。この平野は、短い雨期に集中豪雨があるたび河川が氾濫し、長い乾期には逆に干ばつに悩まされる土地でした。
おまけに沿岸部に広がる広大な土地は、塩害で農作物がほとんど育たず、大部分が不毛の土地でした。
60万人以上の農民は、なす術(すべ)もなく長年にわたり貧困の生活をしいられてきたのです。
そこに日本人が10年の歳月をかけて建設したのが、「烏山頭(うさんとう)ダム」と用水路でした。排水路と用水路の総延長1万9千km、地球を半周する長さです。
ひからびた大地の隅々に大量の水が行き渡ることで、嘉南平野が一大穀倉地帯となり、台湾は一大農業国へと変身したのです。
烏頭山ダム風景区(出典:台南旅遊網)
李さんが20歳のとき、テーブルいっぱいの食べ物を前に祖父が語ったそうです。
「台湾は今たくさんの食べ物であふれている。でもこれはどこから来たか知ってるか?」と。
「日本人は農業(食べ物)と水を与えてくれた。これに勝るものはない。」
さらに祖父は「いただきます」の意味についても
「天地(あめつち)の恵みと多くの人々の働きに感謝して、命のもとを謹(つつし)んでいただきますということだよ」と、教えてくれたそうです。
初めての共通語が日本語
日本統治前の台湾は、部族によって言語が異なり、読み書きの教育も与えられていませんでした。同じ台湾に住んでいても、言葉が通じ合えない人々がたくさんいたのです。
しかし、日本人は国民学校(現在の小学校)を設置し、日本語で教育することにより、今の80歳以上の台湾人のほとんどが日本語を話せるようになりました。台湾の初めての共通語は日本語だったのです。
外部の人間を長年信じなかった台湾人が、はじめから日本人を信用し、喜んで日本語を学んだわけではありません。当初は日本語教育に反抗的な人も多かったようです。
そこで、日本の教師たちはどうしたか。彼らは、まずそれぞれの部族の言語を学んで通訳者となり、部族の文化や風俗、習慣まで細かに学ぶところから始めました。こうして25年ほど経つうちに、日本語と日本人に対する信頼が台湾全土に浸透していったのです。
言葉が通じ合えることで、互いの理解が深まり争いも減っていきました。「国」の意識が育っていったのかもしれません。
日本人のDNAに引き継がれている「日本精神」
日本人が取り組んだのはダムによる治水や教育の普及だけではありません。李さんの講演では触れられていませんが、鉄道や道路、港湾などの交通網、上下水道や発電所等の社会インフラの整備はもちろん、医療や産業など様々な分野で台湾の近代化のために力を尽くしています。
日本が統治した50年間で台湾人の平均寿命は30歳代から60歳代へ伸び、アヘン中毒者数は16万人(20万人説もあり)から0人になりました。教育の機会などなかった台湾人の国民学校(小学校)の就学率は71.3%に達し、マラリア、コレラ、ペスト等の疫病もほぼ撲滅されました。
今でも台湾では「あの人は日本精神(リップンチェンシン)を持っている」という表現がほめ言葉として使われいるそうです。日本精神とは「勇気、誠実、勤勉、奉公、自己犠牲、責任感、清潔」という日本人の美徳を一言で表現したものです。
私は10年前の東日本大震災の時、被災された方々の言動を知り「日本精神」が日本人のDNAの中に引き継がれていることを実感しました。
あの大地震と大津波、その後の福島第一原発の爆発事故の恐ろしさと、その極限状態の中で発揮された日本人の強さ、優しさ、礼節を失わず助け合う国民性は、強く心に刻み込まれています。
今日は3月2日、まもなく10年目の3.11がやってきます。この日が台湾の人々への感謝を新たにし、あなたが引き継いだ「日本精神」に思いをいたす日になればよいと思っています。
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