常寂光寺の参拝を終え、里山の風情の残る嵯峨野をのんびりと散策。祇王寺まで紅葉を愛でながらの、のんびり歩きだ。
◆前回の記事はこちら >奈良&京都見聞録(17) 常寂光寺、嵯峨野の錦秋を満喫する
※ 本稿は2022年11月20日の記録を、12月29日にアップしたものです。
目次
「野は嵯峨野、さらなり」
清少納言が「野は嵯峨野、さらなり」(野でいいのは、まず嵯峨野よ。言うまでもないわ。)と記したように、嵯峨野は平安時代の皇族や貴族にとって人気の行楽地だったようだ。
現代でも里山の風情が残る嵯峨野は、散策がてらの観光を楽しむ人々が目立つ。紅葉シーズンとは言え人出も少なく、何となくホッとする雰囲気が好きである。
常寂光寺の参拝を終え、娘が見たいという落柿舎(らくししゃ)に少しだけ立ち寄る。
それからは祇王寺まで紅葉を愛でながらの、のんびり歩きだ。カミさんと娘のおしゃべりが少しうるさいが‥‥。
途中、二尊院の総門から境内の紅葉をのぞき見。ここも嵯峨野の紅葉スポットだ。
道なりに4、5分ほど進むと祇王寺(正式名称は「往生院祇王寺」)着。
祇王の歌に思いをはせる
白拍子・祇王の哀しい物語
祇王(ぎおう)寺は、平清盛の寵愛を受けた白拍子(しらびょうし)祇王が出家し、念仏三昧の余生を送ったとされる尼寺(実際は草庵)。
白拍子とは「平安朝末期に起こった歌舞。または、それを舞う遊女」をさす。女性が男性の装束を身にまとい、今様(流行している歌)などを歌い、舞ったとされる。源義経の愛人・静御前(しずかごぜん)も白拍子である。
白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆)(出典:北斎館)
『平家物語』では祇王の哀しい人生が綴られ、読む者の涙をさそう。かいつまんで記すと‥‥、
祇王は平清盛に仕えた白拍子で、清盛の寵愛を一身に受けていた。しかし、清盛が祇王よりも若い白拍子・仏御前(ほとけごぜん)に心を移すと、住んでいた邸宅を追い出されることになる。3年間住み慣れた屋敷を離れるにあたり、祇王は一首の歌を襖に書き残していった。
萌えいづるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあわで果つべき
(芽吹いても枯れても(しょせん)同じ野辺の草。どちらも秋(飽き)にあわないで終わるということがありましょうか)
「枯る」と「離(か)る」、「秋」と「飽き」を掛けた歌。仏御前を萌えいづる若草に、自身を枯れようとする草にたとえ、あなたも私もしょせんは身分のいやしい野辺の草。二人ともいずれは清盛公に飽きられてしまう運命なのです。との歌意。
このとき祇王は21歳、仏御前は16歳だったと記されている。
祇王は妹・祇女、母・刀自(とじ)と共に出家し、嵯峨野の奥に庵を結び、念仏三昧の余生を送ったとされる。
その後、自分もいずれ清盛に捨てられるだろうと悟った仏御前も出家して加わり、このつつましい草庵で共に仏に仕えたという。
草庵内には、4体の女人像がひっそりと安置されていた。
苔庭の紅葉に酔う
祇王の哀れな運命に心打たれて訪れる人の多い祇王寺。実は苔庭の幻想的な美しさも魅力の一つだ。竹林と青もみじと苔に包まれた緑の世界は、何とも言えないほど。
小生、40年ほど前に初めて訪れて以来、来るたびにこの庭に癒やされてきた。いつか晩秋に訪れ、この楓が色づく情景を楽しんでみたいと思ってきたのだ。
祇王寺の紅葉は、期待したとおりの美しさだった。
苔の上に静かに積もる散り紅葉。
コンパクトデジカメなので、とてもこの美しさはとらえきれない。「来てよかった」と何度も思うほどの素晴らしい情景だった。
カメラと腕がよければ、こんな素敵な写真も撮れるのだろうが‥‥。
出典:祇王寺公式サイト
念願だった祇王寺の紅葉を堪能し、大満足で嵯峨野あるきを続けることにした。
※ 廃寺同然となっていた祇王寺を再興した高岡智照尼(たかおか・ちしょうに)。東京新橋の花柳界から名妓として映画スターになった美貌の持ち主。波瀾万丈の人生を送った後に40歳で出家し、祇王寺の庵主となった女性。彼女のエピソードを知ると、祇王寺を訪れる楽しみが増すかも。興味のある方は、調べてみたらいががだろう。
『アサヒグラフ』 1948年10月13日号 –
※ この記事の続きはこちら >奈良&京都見聞録(19) 高台寺、紅葉ライトアップは見事だったが‥‥
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