明日は2月11日、「建国記念日」です(私は訳あって「建国記念の日」とは言わないことにしています)。文字通り、日本が国として創建された日。つまり日本国の誕生日です。
「日本は何歳になったのかって?」、え~っと、建国されたのが紀元前660年だから、2683歳になります。とんでもない長寿の国でしょう。これほど長い歴史を持つ国は、世界中どこにもありません。
なぜこんなに長く続いてこれたのか、理由は二つあります。一つは建国の精神が素晴らしかったから。もう一つは、その精神を歴代の天皇と私たちの祖先がしっかり守り続けてきたからです。
ちょうどよい機会です。私が知っている範囲で、日本国の建国のいきさつを話してみましょうか。
※ 本シリーズの前回記事はこちら >あとからくる君たちへ(62) 「受けて立つ」覚悟~私を奮い立たせてくれた2枚の写真~
日本建国の精神を知らなかった私
神武天皇像(画像出典:橿原神宮)
「建国記念日」は、初代・神武(じんむ)天皇が即位された日を記念して制定されました。『日本書紀』に記された神武天皇即位の日を、明治時代に太陽暦に換算して定められたのが2月11日です。この日は「紀元節(きげんせつ)」と呼ばれ、1873年から敗戦の年(1945年)まで70年以上にわたり、国を挙げてお祝いをしてきました。
日本が戦争に負けた後、日本を占領・統治したGHQ(”General Headquarters” の略。連合国最高司令官総司令部のこと)が国民の反対を無視して紀元節を廃止。ようやく「建国記念の日」という名称で復活したのが昭和42年(1967年)のことです。
昭和42年といえば、私は14歳(中学2年生)でした。新しくできた「建国記念の日」がどんな日なのか、日本国がどのような理想を掲げて建国されたのか、誰も教えてくれません(敗戦前までは学校できちんと教えていたそうです)。
「日本という国ができたお祝いの日らしいよ」と聞き、「休日が増えてラッキー!」と喜ぶ、私はそんな単純な少年でした。
それ以来60歳過ぎまで、日本国誕生の詳しいいきさつを知らないまま生きてきました。関心がなかったのです。本当に恥ずかしいことだと思っています。
私と同様、多くの日本人は日本建国の歴史をほとんど知りません。なぜか、学校で教えないからです。なぜ教えないか、1945年に戦争に負けた時に、日本を占領したGHQが禁止したからです。では、なぜ禁止したのでしょう。
「十二、十三才くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」。これは、二十世紀を代表する歴史学者アーノルド・J・トインビーの言葉です。ユダヤの格言にも「民族の歴史を失った民族は、必ず滅びる」というのがあるそうです。
GHQが学校で神話を教えることを禁止したのは、日本民族が二度と立ち上がれないよう「骨抜き」にするのが目的だとする説があります。自分の国を愛し誇りに思う心を失わせ、一つにまとまることができないようにし、ゆっくりと自滅するの待つ政策だそうです。
70年生きて戦後日本の変化を見てきた私には、その説が事実のように思えてなりません。自分の利益が最優先、「今だけ、金だけ、自分だけ」しか考えない日本人。誇りを失い、欲に溺(おぼ)れた醜(みにく)い日本人が何と多くなったことか。
「日本はもうダメだろうなぁ」と半ばあきらめ、GHQは実に見事な民族骨抜き政策を採用したものだと、妙に感心するばかりでした。
そんな私の日本人観を変えたのが、2011年の東日本大震災でした。千年に一度という巨大地震と高さ15m超の大津波、さらに暴走する原子炉事故。言葉にできないほどの逆境の中、整然と秩序を守り、互いを思いやり、自分を犠牲にしてでも周囲の人々を守ろうとする、気高い日本人の姿が次々に報道されました。
「日本が2600年かけて育んできた民族の遺伝子は、まだ生きているんだ!」心の底から感動したことを覚えています。
今ならまだ間に合うかもしれない。少なくとも震災後に生まれた自分の孫たちだけには、ご先祖様が守り続けてきた日本人の価値観を語り伝えておきたい。そんな思いで書き始めたのがこの「あとからくる君たちへ」シリーズでした。
初代天皇の即位建国の詔(みことのり)
話がずいぶんそれました。本題の日本建国の話にもどりましょうか。
初代天皇がどのような国を作ろうとしたのかは、『日本書紀』(720年完成)に記された神武天皇の「即位建国の詔(みことのり)」で知ることができます。
『日本書紀』全30巻は、現存最古の「正史」です。正史とは、国家が編纂(へんさん)した正式の歴史書のこと。当時はまだひら仮名もカタカナもなかったので、中国語(漢文)で書かれています。次の画像を見ると、どんな書物(巻物?)だったか分かるでしょう。
『日本書記』巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵 国宝 平安時代・9世紀 現存最古写本 画像は現存第1紙(応神天皇紀)
こんな漢字だらけの原文、私にはとても読むことはできません。そこで現代語訳の本や解説書を参考にしながら、その大意を箇条書きしてみました。あくまで私流の解釈です。
◆神武天皇の「即位建国の詔」(大意)
- (国家を統一するために)日向(現在の宮崎県)の地を出発し、東に遠征を行ってから6年間。私は神々のお力を借りながら、抵抗する勢力を倒してきた。
- それでもなおこの国は戦乱状態が続いており、残っている敵たちは手強(てごわ)い。
- 幸いなことに、私が治める地域(今の奈良県を中心とした大和の地)は平穏におさまっている。
- しかし民はまだ文明化しておらず、動物のように巣や穴に住んでいる。生活習慣もはるか昔の神々の時代から進歩していない。
- そこで神(アマテラス)のお告げに示された理想を受け継いだ者が、リーダー(=天皇)となり国を治めるべきだと考える。
- この橿原(かしはら)の地の山林を切り拓いて皇居を造り、謹んで(私が)皇位につき、国民が平穏無事に生活できるようにしていこう。
- この国を授けてくださた神(=アマテラス)のお告げに応える国をつくり、祖先が育んだ正しい心を広めていこう。
- (戦乱が続く)この国を一つにまとめ、一つ屋根の下の大家族のようにみんなで(助け合い仲良く)暮らそうではないか。
アンダーラインの箇所が、建国の理想を示していると言われる部分です。次回は、この部分について話すことにしましょうか。
神武天皇が皇居を建てた跡地とされる橿原(かしはら)神宮(画像出典:橿原神宮)
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